袴田事件

袴田事件

袴田事件(はかまだじけん)とは、1966年に静岡県清水市(現静岡市清水区)で発生した強盗殺人放火事件、およびその裁判で死刑が確定していた袴田 巖(はかまだ いわお、1936年3月10日 - )が判決の冤罪を訴え、2014年3月27日に死刑及び拘置の執行停止並びに裁判の再審が決定(即時抗告が可能な期間は未確定)された事件。日本弁護士連合会が支援する再審事件である。



事件および裁判経過

1966年6月30日 - 「有限会社王こがね味噌橋本藤作商店」(「株式会社王こがね味噌」を経て1972年から株式会社富士見物産)専務の自宅が放火された。焼跡から専務(41歳)、妻(38歳)、次女(17歳)、長男(14歳)の計4人の他殺死体が発見される。一家の中では別棟に寝ていた19歳の長女が唯一生き残った。

1966年7月4日 - 静岡県清水警察署が味噌製造工場および工場内従業員寮を捜索し、当時「こがね味噌」の従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。

1966年8月18日 - 静岡県警察が袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕。

1966年9月6日 - 犯行を頑強に否認していた袴田が勾留期限3日前に一転自白。9日、静岡地検が強盗殺人罪、放火罪、窃盗罪で起訴。

1966年11月15日 - 静岡地裁の第1回公判で袴田が起訴事実を全面否認。以後一貫して無実を主張。

1967年8月31日 - 味噌製造工場の味噌タンク内から血染めの「5点の衣類」が発見される。

1968年9月11日 - 静岡地裁が死刑判決。

1976年5月18日 - 東京高裁が控訴を棄却。

1980年11月19日 - 最高裁が上告を棄却。

1980年11月28日 - 判決訂正申立。

1980年12月12日 - 最高裁が判決訂正申立棄却決定送達。死刑確定。

1981年4月20日 - 弁護側が再審請求。

1994年8月9日 - 静岡地裁が再審請求棄却(決定書日付は8月8日)。

1994年8月12日 - 弁護側が即時抗告。

2004年8月27日 - 東京高裁が即時抗告棄却(決定書日付は8月26日)。

2004年9月1日 - 弁護側が最高裁に特別抗告。

2008年3月24日 - 最高裁で棄却。第一次再審請求終了。

2008年4月25日 - 弁護側が静岡地裁に第二次再審請求。

2010年4月20日 - 衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」設立総会を開催。

2010年8月24日 - 袴田巌死刑囚救援議員連盟が「袴田死刑囚は心神喪失状態にある」として時の法相・千葉景子に刑の執行停止を要請した。

2011年1月27日 - 日本弁護士連合会が、妄想性障害等を理由として、刑の執行停止と医療機関での治療を受けさせるよう法務省に要請した。

2011年2月11日 - 千葉法相の指示の下、法務省は袴田を含む複数の死刑囚を対象に精神鑑定などを実施したが、袴田については「執行停止の必要性は認められない」との結論に達していたことが明らかになった。

2011年8月 - 第二次再審請求審において静岡地裁は事件当日にはいていたとされるズボンの他、5点の衣類の再鑑定をすることを決定したことが、弁護団などから明らかになった。再鑑定の結果次第では再審の可能性があるとされた。

2014年3月27日 - 静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定した。袴田は同日午後に東京拘置所から釈放された。静岡地検は東京高裁に再審開始について即時抗告、拘置停止について抗告を申し立てるが、高裁は28日、拘置停止決定を支持し抗告を棄却。29日、生き残っていた長女が亡くなっているのが自宅で発見された。享年67。
袴田は30歳で逮捕されて以来45年以上にわたり拘束され(ギネス世界記録、2014年3月27日まで東京拘置所に収監)、死刑確定後は精神に異常を来しはじめ、親族・弁護団との面会にも応じない期間が長く続いた。現在は面会には応じるものの、拘禁反応の影響による不可解な発言が多く、特に事件や再審準備などの裁判の話題については全くコミュニケーションが取れなくなっている。このため、2009年3月2日より袴田の姉が保佐人となっている。袴田は近年、獄中にて拘禁反応に加えて糖尿病も患っている事が判明している。



裁判の主な争点

自白は強要されたものか。
任意性に関する争点 : 自白調書全45通のうち、裁判所は44通を強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの等の理由で任意性を認めず証拠から排除したが、そのうちの2通の調書と、同日に取られ唯一証拠採用された検察官調書には任意性があるのかなど。
信用性に関する争点 : 自白によれば犯行着衣はパジャマだったが、1年後に現場付近で発見され、裁判所が犯行着衣と認定した「5点の衣類」については自白では全く触れられていない点など。
凶器とされているくり小刀で犯行は可能か。
逃走ルートとされた裏木戸からの逃走は可能か。
犯行着衣とされた「5点の衣類」は犯人である証拠か、警察の捏造か。弁護側は「サイズから見て被告人の着用は不可能」、検察は「1年間近く、味噌づけになってサイズが縮んだ」と主張している。2011年2月、弁護側により、ズボンについていたタブのアルファベットコードはサイズではなく色を示しているとして、警察が誤認した疑いが指摘された。


取調べ・拷問

袴田への取調べは過酷をきわめ、炎天下で平均12時間、最長17時間にも及んだ。さらに取調べ室に便器を持ち込み、取調官の前で垂れ流しにさせる等した。
睡眠時も酒浸りの泥酔者の隣の部屋にわざと収容させ、その泥酔者にわざと大声を上げさせる等して一切の安眠もさせなかった。そして勾留期限がせまってくると取調べはさらに過酷をきわめ、朝、昼、深夜問わず、2、3人がかりで棍棒で殴る蹴るの取調べになっていき、袴田は勾留期限3日前に自供した。取調担当の刑事達も当初は3、4人だったのが後に10人近くになっている。
これらの違法行為については次々と冤罪を作り上げた事で知られる紅林麻雄警部の薫陶を受けた者たちが関わったとされている。



再審について

袴田はすでに死刑判決を受けているが、同時に弁護人によって再審請求もしている。この再審とは、日本の三審制の裁判制度の中で、「重大な証拠」が新たに発見された場合などに、もう一度裁判をやり直すといった制度である。 しかし、上述したとおり日本は三審制を導入しており、証拠が新たに出てきたからといってその都度再審をしていては三審制の本来の意図を侵害してしまうため、事件を根本的に覆すような「重要な証拠」が新たに発見されない限りは、なかなか認められるものではない。 特に日本は再審制度のある国の中でも裁判所による承認率が突出して低い。
袴田は2008年4月に、第二次の再審請求をしている。その後、足利事件や布川事件などにおいて、かねてから冤罪が疑われていた判決確定後の裁判に対し、再審が認められて立て続けに冤罪が確定した。これを機に、国民の冤罪に対する関心は高まり、検察は2013年3月、4月、7月と続いて当時の一部の証拠を開示する。また、同2013年の11月には、事件当時、袴田の同僚が袴田のアリバイを供述していたのにも関わらずに、検察は袴田が犯人であるかのような供述に捏造していたことが発覚し、加えて12月には被害者が当時着用していた5点の衣類に付着している血液が袴田のものではないことも、最新技術を使った弁護団のDNA鑑定によって明らかとなった。これらは裁判が開始して以来最大の変動でもあり、「重大な証拠」として再審が認められる可能性を大きく持った。2013年12月にメディアでは、「2014年の春頃には再審の可否判断がされるだろう」との予想が、新聞各紙にわたって掲載、各ニュース番組にて報道された。そして2014年3月27日に静岡地裁では再審が認められるが、静岡地検は、東京高裁に即時抗告を申立て争う姿勢を示している。



ギネス認定

袴田は、「世界で最も長く収監されている死刑囚」として、75歳の誕生日である2011年3月10日付でギネス認定されている。認定の対象期間は、静岡地裁で死刑判決を受けた一審判決の1968年9月11日から2010年1月1日までの42年間である。



支援の動き

1979年 - ルポライターの高杉晋吾が事件の冤罪性を指摘した記事を『現代の眼』に掲載し、死刑確定後に支援組織「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」(後に「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巖さんを救う会」)を設立する。

1981年から日本弁護士連合会(日弁連)が人権擁護委員会内に「袴田事件委員会」を設置し弁護団を支援する。

1991年3月11日 - 日本プロボクシング協会(JPBA)の原田政彦会長(=ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田の支援を表明する。

2006年5月 - 東日本ボクシング協会が会長輪島功一を委員長、理事新田渉世を実行委員長とする「袴田巌再審支援委員会」を設立する。同委員会はボクシングの試合会場(後楽園ホールなど)で袴田の親族、弁護団所属の弁護士や救援会関係者らとともにリング上から早期再審開始を訴えたほか、東京拘置所への面会やボクシング雑誌の差入れなどを行った。

2006年11月20日 - 輪島を始め5名の元ボクシング世界チャンピオンらが、早期再審開始を訴える約500筆の要請書を最高裁に提出する。

2007年2月 - 一審静岡地裁で死刑判決に関わった熊本典道(判決言渡しの7か月後に辞職)が「彼は無罪だと確信したが裁判長ともう一人の陪席判事が有罪と判断、合議の結果1対2で死刑判決が決まった(下級審は形式上は全会一致)。しかも判決文執筆の当番は慣例により自分だった」と告白。袴田の姉に謝罪し再審請求支援を表明する。

2007年6月25日 - 熊本が袴田の再審を求める上申書を最高裁に提出。

2008年1月24日 - JPBA、後楽園ホールで支援チャリティーイベント「Free Hakamada Now!」を開催[10]。日本ボクシングコミッションが袴田に対し名誉ライセンスを贈呈する。

2008年 - 人権団体「拷問の廃止を目指して行動するキリスト者」(ACAF、Aktion der Christen fuer die Abschaffung der Folter)が、袴田のための署名活動を国際的に展開する。また死刑制度そのものに反対するアムネスティ・インターナショナルも釈放を求めている。袴田がカトリックの洗礼を獄中で受けたために、日本ではカトリックの司教などが再審の署名集めに尽力してきた。

2011年1月27日 - 日弁連は江田五月法相に対して袴田が長年の拘禁で妄想性障害にあり、刑の執行停止が認められる心神喪失の状態だと判断し刑の執行停止と、精神疾患の治療を指示するよう勧告した。

2011年3月10日 - 袴田が「世界で最も長く収監されている死刑囚」としてギネス世界記録に認定された。認定期間は、第一審の静岡地裁で死刑判決を受けた1968年9月11日から2010年1月1日までの42年間である。死刑確定後の拘置期間としては川端町事件・名張毒ぶどう酒事件・ピアノ騒音殺人事件の死刑囚の方が長いが、第一審の死刑判決から「死刑囚として拘束」され続けているとして、袴田が最長と認定された。

2012年5月19日 - JPBA、後楽園ホールのリングサイドに袴田の早期再審開始と釈放を祈り「袴田シート」2席を設置。この日は「ボクシングの日」でもある。

2014年1月 - 世界ボクシング評議会が名誉王座を認定し、釈放された場合はチャンピオンベルトを授けることを決定。14日、静岡地裁に7万4千筆、静岡地方検察庁に4万2千筆の、速やかな再審開始を求める署名が提出され、八重樫東も立ち会う。



袴田巌死刑囚救援議員連盟

国会では、衆参両院議員による「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足し、2010年4月20日に設立総会を開いた。民主党、自由民主党、公明党、国民新党、社会民主党、新党大地、日本共産党、みんなの党、等に所属する議員が発起人となり、総勢57名の超党派議員が参加、代表には牧野聖修・民主党衆院議員(静岡1区)が就任した。同議員連盟発足について牧野は「足利事件で無罪が明らかになるなど冤罪への関心が高まっており、袴田さんの冤罪を信じる議員が集まった。今後は法務大臣に死刑執行の停止や一刻も早い再審の開始を求めたい」と述べている。同議員連盟は、設立総会において、冤罪の可能性とともに、死刑執行への恐怖が長期間続いたため袴田は精神が不安定になっていることなどを指摘し、今後、法務大臣の職権による死刑執行の停止や、医療などの処遇改善を求めることを決めている。
同議員連盟代表の牧野は、強い拘禁反応によって心身喪失状態にある袴田に対し刑事訴訟法479条(死刑執行の停止: 死刑を言い渡されたものが心神喪失にあるときは、法務大臣に命令によって執行を停止することができる)に基づき、法務大臣に対し職務権限による死刑の停止と、速やかに適切な治療を求めるとともに、再審の道を開くべく追求することを表明している。また、担当弁護士は、国際法規に照らしても拘禁反応や糖尿病を放置している状況は人権侵害だと述べている。
また同議員連盟で、弁護団から、死刑確定後30年近く経過している現状は拷問等禁止条約などに違反している疑いがあるため、日弁連に対し人権救済の申し立てを行なった、などの報告があった。



ボクサーとしての袴田巌

袴田は中学卒業後にボクシングを始め、アマチュアでの戦績は15戦8勝(7K0)7敗。1957年 静岡国体に出場。その後不二ボクシングジム所属プロボクサーに転向し、戦績は29戦16勝(1KO)10敗3分。最高位は日本フェザー級6位。



紅林麻雄

紅林 麻雄(くればやし あさお、1908年 - 1963年9月)は日本の警察官。階級は警部。

取調べにおいて拷問とそれによって得た自白をいかにして合法とするかを考案したとして、「拷問王」と評された。
二俣事件における真犯人と思われる人物からの収賄の疑惑も暴露されている。



熊本典道

熊本 典道(くまもと のりみち、1938年10月30日- )は、日本の元裁判官、元弁護士。

2007年に突如袴田事件の支援者に合議の秘密を破り「事件は無罪であるとの確証を得ていたが裁判長の反対で死刑判決を書かざるを得なかった」という手紙を書きその後改めて記者会見を開き同様の趣旨の発言をした。
1968年、合議制の袴田事件第1審(静岡地方裁判所)にて無罪の心証を形成し、1968年6月中旬には無罪判決文を書いていたが、裁判長の石見勝四、右陪席の高井吉夫を説得することに失敗。有罪の主張を譲ろうとしない高井に向かって「あんた、それでも裁判官か!」と怒鳴りつけたという。


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  • 最終更新:2014-04-04 05:12:35

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